吾輩は猫である。

日記

kaichi kaichi

“吾輩は猫である。名前はまだ無い。”

かの有名な夏目漱石の作品の吾輩は猫であるの冒頭の一部である。

人間が飼っている猫であるならば、

大抵は何かしら名前はついているだろうが、

野良であれば名前はまだ付けられていない。

そんな名前というものは一体、どういうものだろうか?

僕ら人間にとっては、生まれて来た時から何かしらの名前を

親から与えられて生まれて来たはずである。

“ひとりずつひとつ”という歌詞があるように、

誰しも人間であるならば名前というものがある。

同じ名前の人間がいたとしても、ひとりずつひとつ与えられているので、

オンリーワンなのである。

“一人一人違う種を持つ”という歌詞があるように。

一人に一つ違う種という言葉から想像されるものの一つにDNAがある。

DNAには、その人を構成する様々な情報があると言われている。

名前という情報はその中には入っていないが、

その人を構成する情報の一つではあるはずだ。

“名は体を表す”という言葉がある。

名前が性質や本質を如実に表していることが多いという意味である。

果たして、そうだろうか?

もちろん、全部が全部そうであるとも言えないが、

そうであることが多いと言えるのではないだろうか。

例え同じ言葉であったとしても、

誰が言った言葉であるかで結果が変わってくることがある。

“吾輩は猫である”と言ったところで、誰も信じてはくれないだろうが、

夏目漱石が言ったならば、結果は変わるはずである。

そういう意味で、名は体を表しているのである。

では、逆に名がなければ体を表さないのか?

と言われればもちろん”ノー”である。

野良猫であったとしても世の中に存在している限り、

体を表しているはずである。

一人に一つ違う種を持っているからだ。

例え野良猫であったとしても、DNAがある。

同じ野良猫であったとしても、中身は違うDNAを持っている。

その中には、その猫を構成する様々な情報が眠っている。

であるならば、野良猫にも名前があってもいいのではないだろうか?

一方で人間にも名前を名乗らない人もいる。

俗にいうインターネットの世界の中の話である。

先ほども言ったように、人間は生まれた時にひとりにひとつずつ

名前というものが与えられている。

なので、インターネット上にいる人間であっても、名前はあるはずである。

しかし、インターネット上には名前を名乗らない人がいる。

俗にいう匿名というやつである。

名前を名乗らないことで、

リスクを回避しているという部分があるが、

せっかくひとりにひとつずつ与えられている

名前という素晴らしいものがあるのだから、

気にせずに名乗ってみてはどうだろうか?

戦国武将の間では、それが礼儀であった。

「我は〇〇なり。」

今度からそう名乗り出てみるのはどうだろうか?

きっと、違う世界が見えるはずである。

ちなみに、吾輩はインターネット上では猫になるので、名前はまだない。

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