登校中にしばしば見かける男がいる。彼は私が通っている高校の制服を着ている。彼は私が登校している時にしか見かけない。彼は下校中には現れない。彼はいつも爪を切っている。彼は日焼けをしている。彼は襟足を伸ばしている。彼を学校では見かけない。彼の爪はいつも伸びている。彼はいつも信号待ちをしている。彼は信号が青になっても前へ進まない。彼は爪を切り続ける。彼は靴を履いていない。彼は靴下も履いていない。彼は足の爪も切ることがある。片足で立って、ふらふらとしながら器用に足の爪を切る。街行くみんなは彼を気にも留めない。
何故みんなは、彼の姿を目に焼き付けようとしないのだろう。みんな遠慮しているのだろうか。私は彼を見る。彼はいつも一人だ。
彼とすれ違う人々の、靴を忙しそうにアスファルトに打ち付けて鳴らす下品な音が憎い。彼の爪を切る音や息遣いが聞こえないではないか。彼のそばをスレスレですれ違うその無神経さが憎い。もし爪を切っているときにぶつかって彼の手元が狂い、怪我でもしたらどうするつもりなのだろうか。
彼は日によって違う爪切りを使う。最初に見かけた日は使い古された黄緑の大きめな爪切り。一昨日はシンプルで小ぶりな金属製の爪切り。昨日は黒い高級感のある爪切り。4か月前、5月の第3月曜日には、子供用のハサミで爪を切っていたこともあった。名前の欄にはマジックで何かが書いてあった痕跡が見えた。彼は今まで、一度たりとも同じ爪切りを使っていない。彼はずっと爪を切り続ける。左手、右手、左足、右足、と全部の爪を切り終わると、いつのまにか伸びた左手の爪をまた切り続ける。パチ、パチ、パチン。パンッ、パチ、ギギ、パチ。パチ、パチ、カチャン。当然のことかもしれないが、彼は切った爪をその場では捨てない。きっと内面も素敵な人なのだ。私は毎朝、期待とともに家を出る。今日もあの人、いるだろうか。今日も爪を切っているだろうか。今日はどんな爪切りを使っているのだろうか。
今日も爪を切っていたら、話しかけてみようか。いや、それはだめだ。粋じゃない。粋じゃないというよりも、許されない。御神木に傷をつけたり、墓石を蹴ってはいけないのと同じだ。それが私の正義であり、常識なのだ。
彼は私にとってなくてはならない存在だ。彼の姿を見ると一日中幸せな気分でいられる。逆に用事などで観ることのできなかった日は、かなり落ち込んでしまう。いつも居るとわかっているのに、私の心臓はせわしなく興奮を伝えてくる。本音を言うのならば、彼と話がしてみたい。先ほど彼に干渉しないことが私の正義だといったが、その一線すら超えさせるような魅力が彼にはある。彼の顔をよく見たい。彼の声を聴いてみたい。彼の名前を知りたい。彼の爪を触ってみたい。香りを嗅いでみたい。感触を舌で確かめたい。彼の爪切りが欲しい。私の爪を切ってほしい。彼が欲しい。彼の爪が欲しい。彼の爪を切りたい。
私は今日も跳ねる心を押さえつけながら、彼の姿を求める。息を切らしながら角を曲がる。今日も彼の爪を切る音が響く。

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