こんにちは。
最近、近所の鳥たちがめちゃくちゃなさえずりを奏でています。ひとたび外に出れば、ここは野鳥園なの?と錯覚するほど。この時期にしかここまで強烈な鳥の声は聴けないので、その音を楽しみつつ、散歩するのも楽しいねと思っています。

さて、実はぼく、哲学がすきです。
なんか、告白見たいですね。へへっ
哲学と言うと、ん?なんですか?みたいな文章や考えが多いイメージですよね。
確かに、なんですかこれは助けてくださいみたいなものも多いのですが、比較的単純明快で身近な分かりやすいものもあると思っています。
その一例として、自由意志についての論争とそこで私が感じたことを少しお話ししようかなと思います。
ただ!
僕は勉強中の身ですのでお話の内容に誤りがあるかもしれませんし、かなり端折りながらお話します。ですので、もし興味を持たれた方がいましたら、論文や研究書を見ていただくのがいいかなと思います。僕の言ってることを信じたい方は信じてください。頑張ります。
前置きは長くなりましたが、本題に移ります。
自由意志の論争には大きく分けて、3つの立場があります。
①すべての出来事は因果関係に従っており、自由意志などないとする「決定論」
②人間の意思決定の源泉にはたとえ、ごく一部だとしても主体的に選択できるとする「自由意志論」
③そもそもの自由概念を見直し、「決定論」と「自由意志論」の両立を目指す「両立論」
なんか、論とか言っちゃってかっこいいですね。
このはなしって、直感的に考えたら、人間の意思決定は自由だろう!!と言いたくなるんですが、行為の因果を考えたり、責任や善悪の概念を考えたり、熟慮を考えたり、運命について考えたり・・・と色々考えると、簡単に自由とも言い難くなってくるんですね。
で、まずお話ししたいのが「決定論」の困難について!
あれ?
タイトルの通りなら自由意志論者についてじゃないの?と思った方もいるかもしれません。
なぜ、「決定論」についてはなすのか、それは「決定論」が自由意志論を証明するための仮想敵みたいなイメージだからです!
つまり、自由意志論の証明には反対の立場が必要不可欠だったということなんですね。
で、
この決定論に対する批判の考え方に、責任の概念を消去してしまうという困難があります。
端的に説明しますと、もしすべての行動の意思が個人で決められておらず、行為の原因の全てが環境や遺伝子情報等のせいにできるとするならば、責任が問えなくなり、そもそもの責任という概念が存在しなくなります。責任という概念がなくなれば、それに付随して、行為の良し悪しがなくなり、善悪の区別自体が存在しない世界を想定しなければいけなくなります。そのような世界の想定は極めて困難であるため、決定論は困難であるという考え方です。
今回はこの考え方における責任の有無という点に目を付けました。
ここで、東京喰種のヤモリという登場人物の有名なセリフを抜粋します。
『この世のすべての不利益は「当人の能力不足」で説明がつく』
このセリフって超現実主義のものすごく極端なセリフみたいですね。
彼は物事行為、特に不利益が生じることに関しては全責任が自分にあると考えていますね。このことから、強く責任の存在感を肯定しているのが分かります。これを自由意志論争の文脈に落とし込むと、ヤモリは自由意志を認めている様に思えますよね。
じゃあ不利益以外の責任はどう考えているのでしょうね。例えば利益的なこと。彼の性格的に何でもかんでも俺のおかげだっていうような気も少ししますね。真相は作者さんのみぞ知る。
長々とお話してしまいました。もし読んでくれた方がいたらほんまにありがとう。
冷酷に見えるヤモリも人間は自由なんだっていうロマンのあることを考えているかもと考えると、なんだか少し親近感がわきますね。
空想が捗る時間でした。みんなよかったら、東京喰種読んでみてね。ほーーーーーーーーんとおもしろいよ。

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