和室で寝っ転がって本を読んでいたら、ぴ、ぽ、と珍しく呼び鈴が鳴った。二十年選手で我が家の門を守り続けているもんだから、最近は弱ってきているのか怠けてきているのか、歯抜けで間抜けな音で来客を知らせてくるようになった。
あいにく母も妹も外出している。
普段なら蝉の声や雨音と同義でだんまりを決めるのだが、間隔をあけてぴ、ぽ、は三回繰り返された。営業や勧誘なら続けざまに人差し指に力を入れるだろう。受け取り必須の宅配か。二人いる妹たちがかわるがわる頼んでいるという化粧品や衣料品や漫画関係のなにかしらかもしれない。再配達は頼んだ側も届ける側も手間でしかない。非常に身に覚えがあるので、短く息を吐いてから、身体を起こした。
「突然ごめんなさいね」
受話器を取って返事をすると、声の主はまず来訪を詫びた。嫌味にも大袈裟にも聞こえないお上品な香りを漂わせている。無意識にこういったことができるひとだと直感した。いつも来る挨拶の声が大きいと噂の配達のお兄さんではなかったようだ。
「三丁目の〇〇です。ここ何日か、お父さんのところを訪ねているのだけどね、いらっしゃらないみたいで」
合点がいった。祖父は私より呼び鈴に出ない。防犯用に買い替えた、外の様子が映像つきでわかる最新式なのだが、声で応対せずとも姿を確認しに画面を見に行けばいいものを、音が鳴っても万年床の炬燵から出すらしないのだ。
おそらくこのひとは私を母親と勘違いしている。たった二文字発しただけでは確かに、そうなる。さっきいただいたのとは正反対の乾いたお詫びを返して、形式上に祖父の尻拭いをする。
「ああ、いえいえいいんです、それでね、私、よくお母さんとお茶したり、お話ししている者なんです。ご近所なのでね。もしかしたら、こちらにお引越しされているわけではないのかしらと思って、来てみました」
さらに納得してしまった。
そして、言葉に詰まる。どのくらい仲が良かったのかわからず、どこまでありのままとするか逡巡したが、ひと呼吸置いて、伝えた。
無音。
「そうだったの……知らずに、ごめんなさいね」
このごめんなさい、には二つの意味が含まれているのだろう。彼女はあの家には今、出不精の祖父しかいないことを知らなかったのだ。
「このところ、私も体調を崩して寝込んだりしていて、しばらく会ってなかったもので。……いつのことですか?」
昨年、と伝える。一問一答であれば答えるのは簡単だ。余計な飾りをつけなくて済む。
「そんなに……」
受話器から熱量のある声を直接に聞くのは、なかなかに堪えた。このまま、音信不通のまま、のほうが良かっただろうか。
「よく貴方や、お孫さんたちのことを話してくれたんです。三姉妹で、もうすぐ一番上の子が大学を卒業して、初めて家を出るって。それは楽しそうに」
小学生の頃、毎日、共働きでがらんどうの自宅に帰るのはかわいそうだからと、一旦祖母の家を経由して帰っていた。歩いて十分の距離だが、ちょっとした冒険みたいで苦ではなかった。夏休みなんかは朝起きて、母親の出勤に合わせて私も家を出た。手提げ袋には宿題や本や自由帳を詰めて、自転車に乗って祖母の家までの坂を下った。
お母さんには内緒ね、と晩ごはんの前にお気に入りのお菓子を、ぽっけに忍ばせやすいように個包装にばらして何個か持たせてくれたこと。
夏休みには漫画を買ってくれたり、ときにはバスに揺られて百貨店までお出かけして、よそゆきの服や鞄を買ってくれたりしたこと。
早帰りのたまに作ってくれる粉吹き芋、炒飯。自分は食べないのに冷凍庫にいつも用意してくれていた氷菓子。普段は使っていないであろう、食器棚の木の匂いがついた、緑色の宝石みたいな飾りが持ち手についた銀食器を、引き出しの奥から出してくれること。
中学を卒業して就職した玩具の人形を組み立てる会社で、ビニルの手足を膨らませるこつがあるとこっそり教えてくれたこと。会社員時代にどれだけ男性から言い寄られたか、茶目っ気たっぷりに打ち明けてくれたこと、それでもお父さんを選んだのはお見合いだったから、大恋愛はなかったのよねと残念そうに、かつ慈しみむように目を伏せること。
家の鍵をなくしてしまい、庭にあった石を窓に投げつけて帰宅して、その足で手も洗わずに電話に向かって業者に修理の連絡をした逸話を、舌を出しながら話してくれたこと。
高学年になって、周りと違って生理が来ないと漏らしたら、ひとそれぞれだから気にしなくて大丈夫、おばあちゃんだってね遅かったんだから、と笑ってくれたこと。何歳になっても女は美しくなくちゃ駄目、お風呂上がりはどんなに忙しくても全身に乳液を塗るのよ、もちろん自分のためよ、と教えてくれたこと。
一枚しか残っていないという、小さな飲み屋をやっていた母親の白黒写真を、大切に財布にしまっていたこと、父親は誰か知らないけれど母親のお店のお客さんで、軍人さんだったこと。
自分が孫だと明かさぬまま、受話器越しに姿の見えないご婦人に話しに話してしまったけれど、すこしも止めず興味深そうに相槌を打ってくれた。彼女が帰る頃には空は暗みがかってきていて、ぽつぽつと明かりも照りはじめている。長々と足を止めてしまったことを深く謝り、慌てて門灯をつける。そろそろ母も帰ってくるかもしれない。お礼をいただいて、しばらくしてから玄関の戸を開けた。当然の彼女の姿はもうなく、ひとつひとつ話すごとに灯っていった光の粒が空にたゆたうのみだった。
初出:文披31題 2023 Day5「蛍」
2023年の文披31題で、祖母の三回忌に合わせて書きました。実話六割、創作四割くらいです。『伊勢物語』には蛍を死者の魂に見立てる話があるそうです。そういえばこれを書いた一か月半後、祖父も亡くなりました。歳は違えどお誕生月が同じ夫婦で、亡くなったのも同じ夏でした。

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