今日も私はご主人を探して肉球で地面を踏みしめる。
ギラギラとしたネオンは、街の真ん中を流れる川に反射してゆらゆらと揺れている。この場所は、大きなタンクトップの人間が壁に磔になって、ほほ笑んでいる街だ。
蒸せかえるような熱帯夜はどこか行って、少しずつ冷える日が増えてきた。
冬が来るまでにご主人を見つけることが出来なければ、私は凍えて死ぬだろう。
しかし、今日はどうしてか素敵なご主人を見つけられるような気がしてならない。こういう夜はたいてい何かしらあるものだ。
街で一番大きな橋の欄干を歩いていると、二人組の男に「おーい、危ないでー」と声を掛けられる。千鳥足なところを見ると、酔っているらしい。
酒臭い人間は嫌いだ。
臭いと言えば、この場所は定期的に人がごった返して、川に飛び込んだりすることがある。この街に来た頃、川に顔を近づけると強烈な悪臭に驚いた。しかも、飛び込みをする奴は、周りの人間に止められても「飛び込ませてくれ!」と叫んでいるため、正気ではないのだろう。
こんな臭い川に飛び込む奴もご主人候補としては失格だ。
私が探しているのは、猫を欲している人間。
人の孤独は猫の形をしているのだ。だから、そこに私はぴったりと合う。
橋の上から街を見ていると、川のほとりのベンチで一人で座る男を見つけた。
私は、欄干を降りてその男に近づく。近くに行ってみると、その男は、うなだれて下を向き、私の存在には気が付いていないようだった。わざと気が付いてもらえるように前を歩いてみるが反応はない。
私は下品な猫ではないので、足元に体を摺り寄せて媚びるような真似はしない。
猫が必要な人間ならば、自ら私のことを撫でに来るはずだからだ。きっとこの人間には何か私を撫でない理由があるはずだ。
男が座るベンチから少し離れて観察をしてみると、傍に花束が置いてあった。そこで私は察する。もしかしたら彼は今、失恋をしてきたばかりなのかもしれない。
それに気が付いた時、私の胸は高鳴った。
失恋の形もまた猫の形をしているからだ。
見た目は二十代手前といったところか、襟付きの紺色のシャツにチノパンを履いていて、髪は短く整えられている。清潔感があることも好感度が高い。
私は、ゆっくりと近づき男に話しかける。
「君、私を飼ってみるつもりはないかな?」
私の声に男の体がビクッと震えた。
どうやら一人の世界に入り込んでいたようだった。
「……お前、俺に話しかけとんのか?」
ゆっくりと顔を上げた男が私のほうを警戒しながら、言ってくる。
私は何も言わずに見つめることでそれを肯定する。
「俺には、お前が何言うてんのか分からへんわ」と男はため息交じりにいった。
こいつは私の言ってることをそもそも理解しようとしているのか、と嚙みつきたくなる。だから、私は無言で男の傍にあった花束を見つめて、なんだそれはと首をかしげてみた。
「ああ、これか? これはな、今日好きな子に告白しよ思て、買うたんや」
やっぱりか、と私は心の中で思った。
しかし、我々猫も好きな相手にネズミや小鳥などをプレゼントすることはあるが、どうして人間は草の塊をプレゼントするのか。不思議な生き物だ。
「阿呆みたいやろ。告白はしたけど、きっぱり振られてもうてな。しかも『恥ずかしいから、そんなバラの花束みんなの前で渡さんといて』言われて、これも受け取ってくれへんかったんや……惨めやわ」
なるほど、確かに人間にプレゼントを渡したとしても、気味悪がられたり叫ばれたりすることがあったな。一度、友人はスズメを狩って、プレゼントしたところ「外にもどしてくれ」といって受け取ってくれなかったと話していた。
この人間も同じような経験をしたのだろう。
というか、こいつもしかして、でかいだけの猫なのではないだろうか?
「こんな話、お前にしてもしゃあないんやけどな」
そんなことはない。私は彼の孤独を埋めることが出来る。
なんといえば伝わるのか、私は川のほうを眺めて考える。
すると、遠くから誰かの声がした。
「なんや神崎、こんなとこおったんか」
声のほうを向いてみると、ベンチに座る男と同い年ぐらいの男が手を振りながら近づいてくる。
「お前が振られた言うて電話してきよるから、笑いに来たったんやぞ」
「やっぱり、持つべきもんは友達やな。ほな、飲み行こか」
男は、先ほどのしみったれた雰囲気を吹き飛ばして、肩を組んで笑いだす。
私のことなど、最初からいなかったように、二人はそのまま街のネオンの中に消えていく。どうやらこの男は孤独ではないようだ。彼の隣に私の席はない。
彼らの背中を見送って、私はまた一匹になった。
だがしかし、夜は始まったばかりだ。
次の獲物を探しに川に沿って歩いていく。
幸いなことに、この街は人が多い。私が今日見つけると決めれば、都合のいい人間なんて、いくらでもいるだろう。
今の失敗は、私から話しかけてしまったことだ。
そもそも、人間なんぞに私の言葉が理解されるはずなどなかったのだ。
私は賢い猫だから、学習が出来る。
そうだ、私にはきっと寡黙で知的なご主人が合っている。
となれば、街の喧騒は似合わないだろう。
私は街の路地裏へと進み、大通りに比べて一段と静かになった道を歩いていく。
川の傍とはまた違った悪臭が漂っているが、その中に香ばしい人間の食べ物の匂いが漂ってくる。お腹が鳴る。
そういえば、今日は何も食べられていないな、体が日々軽くなっていくのがわかる。
どうして、この街はこんな私を放っておけるのだろう。猫は歓迎され、愛されるべくして生まれてくる。なのに、私は一匹でとぼとぼと人を探している。
私の沈んだ気持ちを払拭するほどに格段にいい香りがしてきて、私は顔を上げる。
目線の先には、ここらを縄張りにしている数匹の猫が、人間の女を囲って何かをねだるように浅ましく鳴いていた。
その人間は無表情にそれを見下ろして、何個かの缶をもったいぶったように抱えている。そのうちの一つが開けられていて、その香りが風に乗って私のほうまで来ている。まるで、その光景を見て何かの欲を満たしている様子で、健全ではない表情だ。
その女は黒のワンピースに黒縁の眼鏡をかけていて、後ろの髪は一つに結ばれていて、まるで自分は正しいと主張するような見た目をしていた。
私はそれを見てほくそ笑む。
どうやら今日は運がいいらしい。
橋の下に住む私の友人曰く、眼鏡というものを掛けている人間は賢くて、猫が好きな奴が多いという話だ。
遠目から、その女のことを観察する。
先ほどとは違い、私から話しかけるような真似はしない。
この手の人間は、あまり積極的に近づくと引いてしまう。
ここは我慢だ。
女は手に持った缶を足元に置いて、猫が小さな丸い缶に必死に頭を押し付け合って食べているのを見ている。早く二つ目を置いてやればいいものを、口元の端を少し上げて、それを見ている。
結局、一番体の大きな猫が他の猫を押しのけて、顔を突っこんで必死に貪り食っている。周りの猫はそれを恨めしそうに見ていることしかできない。
やっと、二つ目の缶を開けた時には、数匹の猫はその光景に腹を立ててどこかへと行ってしまった。
猫が餌を取り合う光景に満足したのか、女は手に持っていた缶を全て開けて、地面に置いた。お預けを食らっていた他の猫も必死にがっついて缶の中を舐める。
どうやら女の性根は腐っているようだ。
しかし、だからこそこんなにも下劣な好意を人目のつかない路地裏でしているのだろう。歪んだ性格もまた猫の形をしているものだ。
人間社会から切り離されたものが縋るものが猫というのは世界の常識だ。
私はじりじりと少しずつ、だが直線的でなく、少し弧を描くような感じに近づく。雰囲気はあなたには興味がありません、ただ撫でたければ好きにすれば? というスタンスで歩を進める。
彼女の間合いに入った時、初めて彼女は私の存在に気が付いた。
それまで夢中で足元で餌を食べる猫を恍惚とした表情をして眺めていた。
素晴らしい、彼女は性悪だが、間違いなく猫好きだ。
私のほうを見て彼女は固まり、少し警戒をしているような表情をしている。おそらく、餌がもうないということを気にしているのだろう。そんなことを私は気にしない。
近くで見ると、その女は人間としては小さな体だった。
私は彼女のその腕に抱きかかえられる自分の姿を想像する。しかし、その腕はあまりにも小さいため私はその中には納まりきっていない。それでも及第点だろう。
寒空の下で凍えるよりも、小さく性格の悪い女の元で眠るほうがましだ。
女が私に対して、なにも話しかけず、撫でようともしてこないので、私は仕方なく彼女が撫でやすいように地面に寝転がり、腹を晒す。
彼女はそれを見ると、ポケットから黒い板を出して弄りだす。時々、そういう風な行動に出る人間がいることは私も知っている。私の友人曰く、人間はそうしてかわいい猫を共有して、喜び合うらしい。
こんな女にも、誰かと喜びを分かち合う人間がいるのだろうか。
彼女は、満足したのかすぐに板をしまい、どこかへ歩き出した。
ここは攻めるべきだと感じた。
私は起き上がり彼女の後を一定の距離を空けて、追いかけた。
彼女は時折、ちらちらとこちらを見て、気になっているようだった。
私を飼ってみないか? と鳴いてみる。
その声に彼女の足は止まり、一度こちらを振り返る。そして、すぐに前を向いて今度は走り出した。私は呆気に取られて、追いかけなくてはと思った時には彼女の背中は大通りのネオンの中に紛れて、見えなくなっていた。
私はまた一匹になった。
それからは、元の缶が置かれていた場所に戻り、他の猫が食べていたところを横取りして、私もその中身を食べた。
元々いた猫たちももうどこかへ行ってしまい、誰の気配もしない裏路地の薄暗い道先を見つめていると、自分の存在がとても小さく思えて怖くなる。
冬の風が吹いて、火照った体の熱を奪う。くしゃみをして、ぶるっと身震いをした。
あの女には、私を飼うほどの度量がなかっただけだ。条件としては悪くなかった。
気を取り直して、次を探しに行こう。体が冷えてきた。
ぽつり、と鼻先に冷たい感触があった。
空を見上げる。星も見えない沈んだ空からぽつりぽつりと少しずつ勢いを増して、雨が降ってくる。私は空に向かって鳴く。
なんで私ばっかりこんな気持ちになるんだ。
仕方がない。路地裏を後にして、私は再び川に向かう。
今度は人ではなく、猫に会うために。
橋の下に着くころには私の体はずぶ濡れになっていた。
その場所は私の友人の縄張りだ。
来たぞ、という意味の鳴き声を出すと、その友人は隅にある段ボールの中からのっそりと出てくる。
目つきが悪く、毛並みは明るいオレンジ色のベースに茶色の縞模様だから、彼を知る者は親しみを込めてトラと呼んでいる。
彼は私を見ると、その濡れて情けなくなった姿を見て、見下したような表情をした。
まだご主人は見つかっていないのか。
トラは私にそういう風に鳴いた。
私は体を震わせて水を飛ばし、寒さに耐える。
ふとトラのほうから腹の鳴る音が聞こえる。どうやら、今夜は彼も餌にありつけていないらしい。先ほどの缶もまだ少しだけならあったはずだから、土産に持ってくればよかったな。ぼんやりと彼を見ながら考える。
「こんなに濡れていて、可哀想な姿なら、きっとここを通る人間は私を拾ってくれるはずだ」
独り言のように、私は鳴いた。
トラは何も言わず、のんきに自分の毛づくろいをしている。まるで濡れている私への当てつけのように。だが、その興味のなさが彼といて居心地のいいところだ。
私も少し意地悪をしてやろうと、トラの近くへ寄って、隣に座り濡れた体を彼に擦り付ける。しかし、意外にも彼は嫌がらずに私の腕の中でグルグルと喉を鳴らした。
彼の温かな体温が少しだけ感じられて、私の中で何かが満たされる。
「今日は拾われるチャンスが二回あったんだけど、どっちも駄目だったんだ。どちらも私から話しかけて、どこかへ行ってしまったんだ」
私がそう鳴くと、トラは何も言わずに私の瞳をまっすぐに見つめる。
今日はもう探さないのか?
そう首をかしげて私に聞いてくる。
「今日はもうここで待つことにしたんだ。だって、橋の下で猫が濡れていたら、人間は放っておけないだろ?」
いい作戦だ、とトラが鳴く。
雨で体の熱が奪われてしまい、私の体は震えていた。
濡れた街を見上げると、なんだか情けない感じがして、ぼやけたネオンになぜか腹が立った。
「ちょっと、ええかな」
橋の下に響くような声で、誰かが私のほうに呼びかける。
そちらに顔を向けると、一人の男が私のほうに向かって歩いてくるのが、見える。
どうやら作戦は上手くいったようだ。
私はじっと近づいてくる男のほうを見つめて、観察する。
男の顔が見えるほどに近づいた時、私の腕の中にいたトラが動いて、どこかへと歩き出す。
男が私の傍で止まり、腰をかがめて座る私の顔を覗き込む。
「二回通報あってな。特徴が兄ちゃんと一致しとるから、ちょっと時間ええかな?」
私は視線だけトラのほうに向ける。
彼は大きくあくびをして、その背中はネオンの街に消えていった。
